奥田神社について

当社は古くより熊野神社と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦神が主祭神です。

古老の口伝によると鎌倉時代の承元年間(一二一〇)にご鎮座されたと伝わります。この時代は土御門天皇、順徳天皇の御代ではありますが、「治天の君」として知られ「熊野御幸」とも称されるように熊野権現を深く崇敬された後鳥羽上皇の院政期になります。爾来、戦国の動乱の時を経ても、その御神威により当地の産土神様として広く崇敬を集めてきました。

寛保元年(一七四一)には奥田郷十八ヶ村(奥田・下奥井・下新・鶴田・下赤江・桑原・中島・上赤江・上奥井・西田・窪・狭間・栗田・粟島・下富居・上冨居・宗左ェ門開・弥右ェ門)の惣社とされ、「三十六歌仙」の一人である赤染衛門の父を先祖とする赤祖父伝兵衛が社殿を新たに造営されたと伝えられています。

奥田の地を開いた赤祖父家は奥田伝兵衛とも呼ばれ、代々伝兵衛を襲名し、戦国時代に奥田庄を上杉謙信から与えられて帰農したとされ、新川郡将官百姓を務めました。そして、寛永末から慶安年間(一六二四~五一)にかけては加賀藩十ヶ村の肝煎、また、明治二十二年には初代奥田村長を務めた名家です。『奥田郷土史』によると、往時は千二百余坪の広大な社地に老樹がうっそうと茂り、岩瀬港に出入りする航海に際しては、唯一の目標林とされ、航行する船の目印にもなっていたと伝えられています。

「奥田」との地名が指すように、水系に恵まれて広大な田圃が広がり、富山藩・加賀藩にとっても極めて有益な土地とされ、また富山湾と城下町を結ぶ要地でもありました。

また江戸時代より「越中の売薬」として全国的に親しまれた歴史の礎を基とし、大正時代には官立富山薬学専門学校が開校し、後に富山大学薬学部となりました。

昭和九年十一月に琴平神社を合祀、同五十年よりは氏子崇敬者らによって鎮守産土の神社としての御神威の宣揚、さらには当社と当地の歴史を後世に伝えるべく「奥田神社」として社号標や鳥居扁額が整備され、親しまれています。