今から四十年も昔のこと、日本が世界を相手に戦争をしていたころのお話です。
長引く戦争に食べるものも着るものもだんだんなくなってきました。ごはんにイモやなっぱがまじり、それもたくさん食べられるわけではありません。服だってなかなか新しいものが手にはいらないので、つくろってつぎをあてて、大事に大事にきていました。あるとき、みんなの家にある金物が集められ、小学校の運動場につみあげられました。つぶして、大ほうやてっぽうやたまを作るというのです。お寺の鐘まで出されていて、おとしよりはマンマイダブナンマイダブと手をあわせ、なみだをこらえていました。
何よりも大変なのは、男の人たちが兵たいにとられることです。この奥田からもたくさんの人が戦争につれてゆかれました。人の目がうるさいから、口では、「お国のためにりっぱに戦ってきて」といってはいましたが、「どうぞ無事にかえってきて」というのがあとに残される家族の本当の心。みんな、こっそりと神社にお参りなんかしていました。
そんなある晩のこと、熊野神社の神主さんのゆめまくらに神さまがたたれました。いくさじたくに身をかため、いかめしい顔をして「われらもこれより戦場にまいる」とだけ告げられられると、ばっと身をひるがえして空へまいあがってゆかれました。そのあとを、たくさんのカラスがギャオギャオなきたてながらついてゆきました。はっと目がさめて、神主さんはあわてて外にとびだしていきましたが、夜明けま近のうす明るい空はしんと静まりかえっていました。
やがて、神社のめぐりの木立のあちらこちらから鳥のなきかわす声がきこえてきました。でも、あのけたたましいカラスのすがたをぷっつり見かけなくなりました。 昭和二十年八月一日の深夜、富山市の上空にアメリカのB29ばくげき機があらわれ、ぱらぱらとばくだんを落としはじめました。富山の町はあっという間に炎につつまれ、人々は火の海の中をただただにげまどうばかり。夜が明けると一面の焼け野原。道ばたにも川にも死体がころがっていて、顔をそむけてもそむけても目にはいってきます。はぐれた家族をさがして、死体を一つ一つのぞいて回る人や、おうちがなくなったとなきじゃくる子ども、いはいをだいたまま地べたにすわりこんでぼんやりしているおばあさん・・・胸のつまることばかりでした。
八月十五日、ようやく長かった戦争が終わりました。あちらこちらにバラックの家が建ちはじめたころ、男の人たちもやせ細りつかれはててはいましたが、なんとかもどってきました。そして口々に不思議なこともあるもんだと話し出しました。いつも自分らの前にすばしっこく動き回る者がいて、だれかなと思いながらもあとについて進んでいくと、いつのまにやらあぶないところを切りぬけていましたと。また、もう一人声をひそめていいました。たまにあたってばったりたおれたから、あわてて助けにいったけど、だれもいなくて、ただ黒い羽が一枚おちているだけでしたと。それはカラスだ、おれたちを助けてくれたんだよ、だれともなくいいだし、みんな、ほうとうなずきました。
今、奥田では、カラスたちのなき声がちゃんときこえています。(小さいころによく聞かされた話です。)
出展 昭和60年の「富山新聞」より